ケーテ・コルヴィッツ:わが子を戦争で失った母が刻んだ、鎮魂の版画
貧困と労働者の苦しみを版画で描き続け、第一次大戦で息子を失ってからは反戦と鎮魂を生涯のテーマとしたケーテ・コルヴィッツ。ベルリンの記念施設に置かれる「ピエタ」に結実した、母の悲しみの生涯。
ケーテ・コルヴィッツ(1867-1945)は、20世紀前半のドイツを代表する版画家・彫刻家です。貧困や労働、戦争がもたらす人間の苦しみを主題に、力強い線と黒の塊による白黒の版画を数多く制作しました。とりわけ母と子をモチーフにした作品群は、個人的な悲しみと社会全体の苦悩を重ね合わせた鎮魂の表現として、時代と国境を越えて評価されています。
生涯:労働者への眼差しから、わが子を失う悲しみへ
1867年、プロイセンのケーニヒスベルク(現在のロシア・カリーニングラード)に生まれました。祖父は自由宗教教団の指導者、父は社会主義に共感する人物で、貧しい人々への関心はこの家庭で育まれています。当時の女性は美術アカデミーに入れなかったため、ベルリンとミュンヘンの女性画学校で学びました。
1891年、医師カール・コルヴィッツと結婚し、ベルリン北部の労働者街に住みます。夫の診療所を訪れる人々の暮らしが、そのまま彼女の主題になりました。1893年、ハウプトマンの戯曲『織工』の上演に触発されて連作《織工の反乱》を制作し、一躍名を知られます。続く連作《農民戦争》で、歴史の中の民衆蜂起という主題を掘り下げました。
1914年10月、志願兵として出征した次男ペーターがフランドルで戦死します。18歳でした。この喪失以降、反戦と母の悲しみが作品の中心テーマになります。1919年にはプロイセン芸術アカデミー初の女性会員となりますが、1933年のナチス政権成立後は退会を強いられ、作品発表の場を奪われました。1943年に空襲でベルリンの自宅とアトリエを失い、1945年4月、終戦の直前に77歳で没しています。
画風の特徴
コルヴィッツは風景も静物もほとんど描かず、生涯ほぼ人間の身体だけを扱いました。しかも顔の美醜ではなく、背中の丸み、握りしめた手、抱きかかえる腕の力といった「動作」に感情を託します。エッチング、リトグラフ、木版を主題に応じて使い分け、とくに木版では黒と白を大きな面としてぶつけ、彫り跡の粗さそのものを叫びに変えました。自画像を生涯にわたって描き続け、老いていく自分の顔を記録し続けたことも特筆されます。
代表作
- 織工の反乱(1893-97年、連作6点):19世紀シレジアの織物職人の蜂起を題材にした出世作。社会派版画家としての名を確立しました。
- 農民戦争(1902-08年、連作7点):16世紀のドイツ農民戦争を主題に、《突撃》など劇的な場面を含みます。
- 死んだ子を抱く母(1903年、エッチング):自身と幼い息子ペーターをモデルに、動物のように子を抱きしめる母を描き、伝統的なピエタの様式を超えた生々しさに到達しました。
- 戦争(1921-22年、木版連作7点):《犠牲》《母たち》など、息子を失った経験から生まれた反戦連作です。
- ピエタ(死んだ息子を抱く母)(1937-38年、ブロンズ):小さな彫刻ですが、1993年にその拡大版がベルリンの戦争犠牲者追悼施設ノイエ・ヴァッヘ中央に据えられ、統一ドイツの追悼のかたちとなりました。
同時代の画家との関係
初期には版画家マックス・クリンガーの著述に導かれて、油彩ではなく版画を主戦場に選びました。1920年、彫刻家エルンスト・バルラハの木版を見たことをきっかけに木版へ本格的に取り組み、黒の面を生かした様式に至ります。同時代のドイツ表現主義の激しい造形とは距離を置き、ムンクと並んで、人間の根源的な感情を扱った作家として語られます。
日本で見られるか
コルヴィッツは版画家であるため、日本にも実物が入っています。沖縄県宜野湾市の佐喜眞美術館は、連作《戦争》《農民戦争》《死》をまとめて所蔵しており、日本で最もコルヴィッツに近づける場所です。ほかに国立西洋美術館が《自画像》を、愛知県美術館が彫刻《恋人たちII》を、山梨県立美術館も作品を収蔵しています。版画は光に弱いため常時展示ではありませんが、特集展示の機会があります。
見どころ
コルヴィッツの前では、顔よりも手を見てください。子を抱く指の食い込み方、握られた拳の骨の張り。彼女は感情を表情ではなく手に集中させています。次に、白く残された紙の部分に注目します。黒い塊のあいだにわずかに残る白が、光であり、逃げ場であり、時に希望です。小さな版画が多いので、遠慮せず近づいて、彫刻刀や針の跡そのものを見るのがおすすめです。
代表作ギャラリー






作品画像はパブリックドメイン(出典: Wikimedia Commons)