『墨のゆらめき』:文字を「読む」のではなく「見る」楽しさを教えてくれる小説

『墨のゆらめき』:文字を「読む」のではなく「見る」楽しさを教えてくれる小説

老舗ホテル勤務の会社員が、書家の「手紙の代筆」という奇妙な副業を手伝うことになります。墨の濃淡や筆の運びといった細部に人の心の揺れが立ちのぼる、三浦しをんの静かな一作。文字を情報として読むのをやめ、書を鑑賞するための目を授けてくれる小説です。

はじめに:文字には、書いた人の呼吸まで写ってしまう

『墨のゆらめき』(三浦しをん 著)は、書という芸術を「読むもの」ではなく「見るもの」として味わう楽しさを教えてくれる小説です。2023年5月に新潮社から刊行されました。もともとは新潮社とオーディオブック配信のAudibleの共同企画のために書き下ろされた長編で、2022年11月にまず朗読版の配信が始まり、書籍はその後に出るという珍しい順序をたどっています。声で読まれることを前提に書かれた文章だと知って読むと、地の文の息づかいの心地よさに合点がいきます。

主人公は都内の老舗ホテルに勤める続力(つづきちから)。宴席の招待状の宛名書きを頼むために書家の遠田薫(えんだかおる)を訪ねたことから、物語が動き出します。やがて続は、遠田がひそかに請け負っている「手紙の代筆」という仕事を手伝うことになります。依頼人の筆跡をそっくり真似て、その人になりかわって手紙を書く。奇妙で、どこか危うい仕事です。

著者について

三浦しをんさんは1976年、東京都の生まれです。2000年に『格闘する者に○』でデビューし、2006年に『まほろ駅前多田便利軒』で第135回直木賞、2012年に『舟を編む』で本屋大賞を受賞しました。2015年の『あの家に暮らす四人の女』では織田作之助賞も受けています。

辞書編集を描いた『舟を編む』、林業の『神去なあなあ日常』、箱根駅伝の『風が強く吹いている』。専門的な仕事の世界に素人を放り込み、その人の戸惑いを通して読者にも技術を教えてしまうのが、この作家の得意技です。『墨のゆらめき』は、その手法を「書」に向けた一作です。

この本の3つの見どころ(読みどころ)

1. 「代筆」という仕事が照らし出す、文字の正体

手紙の代筆は、単なる文字の模写ではありません。依頼人がどんな人で、どんな距離感で相手に語りかけたいのか。それを掴まないと、筆跡が似ていても手紙は嘘になってしまいます。遠田が依頼人の話に耳を傾け、その人の呼吸に合わせて筆を下ろしていく過程は、肖像画家が対象をじっと観察する行為とよく似ています。文字が情報の記号であると同時に、書いた人の身体の痕跡でもあることに気づかされます。

2. 書を「見る」ための語彙が増えていく

続は書についてまったくの素人です。だからこそ遠田の手元を見ながら、線の太さ、余白の取り方、墨の潤いと乾きに、少しずつ言葉を与えていきます。読者はその視線に相乗りするかたちで、楷書と行書の違いや、仮名の連綿といった書の見どころを自然に覚えていきます。

3. 静かに変わっていく、二人の距離

生真面目な会社員と、素性のはっきりしない書家。育ちも話し方も違う二人が、代筆という共同作業を通じて少しずつ間合いを変えていきます。仕事を通じた人間関係を描く三浦しをんの筆はここでも冴えていて、遠田が抱える事情が明らかになるにつれ、彼の書く文字の意味までも変わって見えてきます。この構造こそが、本作をただの職業小説から芸術小説へと引き上げています。

どんな読者に向くか

書の予備知識はまったく要りません。語り手の続が完全な素人なので、読者は彼と同じ位置から出発できます。用語が出てくるたびに遠田が説明してくれるので、置いていかれる心配もありません。一冊で完結する長さで、通読向き。事典的に引く本ではなく、頭から物語として読む本です。

逆に、事件が起きて謎が解ける小説を求めている人には、静かすぎると感じられるかもしれません。面白さは、代筆という仕事の手つきと、二人の距離が変わっていく過程そのものにあります。美術館で書の展示室を素通りしてしまう自覚がある人、自分の字が下手だと思っている人には、とくによく効く一冊です。

この本を読んだ後の、おすすめのアクション

書を「作品」として見に行きましょう。千葉県成田市の成田山書道美術館は、近現代の書を中心に据えた、国内でも数少ない書の専門館です。古典に触れたいなら、東京国立博物館の書跡の展示で平安時代の仮名や古筆を見るのがおすすめです。古筆や古写経のコレクションを持つ五島美術館(東京・世田谷区上野毛)も、同じ関心で回れる館です。

展示室では、文字の意味を追うのをいったんやめて、線の速度と余白だけを目で追ってみてください。この本を読んだ後なら、その見方が自然にできるはずです。

まとめ

『墨のゆらめき』は、書という芸術への敷居を静かに下げてくれる一冊です。必要なのは、文字を情報としてではなく形として眺めてみる、ほんの少しの心の余裕だけ。読み終えたあと、自分の手書きの文字を見る目まで変わってしまうかもしれません。

Kindle版:墨のゆらめき