『古寺巡礼』:奈良の古寺と仏像を、若き哲学者の眼で見つめた紀行の古典
1918年5月、二十代の終わりだった和辻哲郎が友人たちと奈良の古寺を巡った印象記。法隆寺の百済観音や中宮寺の菩薩半跏像を前にした驚きを、東西の文化を横断する知識とともに綴った紀行の古典です。仏像鑑賞の入口として、いまも最良の道連れになってくれます。
はじめに:仏像の前で心が動いた、その瞬間を書き留めた一冊
奈良の古寺を歩いて仏像を見るとき、多くの人は「ありがたそうだけれど、どう見ればいいのか分からない」という壁にぶつかります。その壁を越えるための最良の道連れが『古寺巡礼』(和辻哲郎 著)です。
1918年(大正7年)5月、二十代の終わりだった和辻が数人の友人と奈良付近の古寺を巡り、その印象を書き留めたものです。同年8月から翌年1月にかけて雑誌『思潮』に連載され、1919年5月に岩波書店から単行本になりました。新薬師寺、浄瑠璃寺、東大寺、唐招提寺、薬師寺、当麻寺、法隆寺、中宮寺。のちに『風土』や『倫理学』で知られる哲学者が、まだ若く、驚きを隠さずに書いた文章が、本書をいまも読ませる理由です。
著者について
和辻哲郎は1889年、兵庫県の生まれです。東京帝国大学で哲学を学び、のちに京都帝国大学、東京帝国大学で教えた哲学者・倫理学者で、1960年に亡くなりました。風土と文化の関係を論じた『風土』、体系的な主著である『倫理学』、江戸期の対外関係を扱った『鎖国』など、日本の近代思想史に残る仕事をしています。
ここで押さえておきたいのは、本書がそれらの大著よりずっと前に書かれた、若い日の旅の記録だということです。美術史の専門家でも仏教学者でもない一人の哲学青年が、目の前の像に打たれてそれを言葉にしようとした。本書の熱の正体は、そこにあります。
この本の3つの見どころ(読みどころ)
1. 仏像を「信仰の対象」から「美術」として見る視線
和辻は僧侶でも仏教学者でもなく、仏像を造形として、つまり美術として正面から見ます。法隆寺の百済観音の細く長い立ち姿、中宮寺の菩薩半跏像の微笑、聖林寺の十一面観音の重厚さ。それぞれの前で何を感じたかを、比喩を惜しまずに書いていきます。宗教的な予備知識がなくても入っていける敷居の低さは、この姿勢から来ています。仏像鑑賞の入口として、これ以上の本はなかなかありません。
2. ギリシャからインド、中国へ。文化が流れてきた道筋を思う
和辻の関心は奈良に留まりません。飛鳥・天平の仏像を見ながら、その様式がインドや中国、さらにはギリシャ彫刻の遠い影響を受けて日本に届いたのではないかと想像をめぐらせます。研究として厳密かどうかより、一体の仏像から東西の文明史へ視界がひらけていく感覚が読みどころです。奈良の寺が、ユーラシアの端に位置する到着地点として見えてきます。
3. 二つの『古寺巡礼』——初版と改訂版
本書には少し込み入った事情があります。1919年の初版は関東大震災で紙型を失い、1924年に版を組み直して再刊されました。さらに戦後の1947年3月、和辻自身が大幅な改訂を施した版が岩波書店から出ます。これが以後の定本となり、現在の岩波文庫もこの改訂版を底本にしています。一方、若書きの熱がそのまま残る初版のほうも、2012年からちくま学芸文庫の『初版 古寺巡礼』で読むことができます。同じ旅の記録が二つの姿で残っているというのは、それ自体が面白い読書体験です。
どんな読者に向くか
仏教や美術史の予備知識は要りません。難解な哲学書でもまったくありません。旅の高揚がそのまま文章になっているので、章単位で気軽に読み進められます。訪ねる寺が決まっているなら、その寺の章だけ拾い読みしても成立する。通読と拾い読みのどちらでもいける本です。
ただし100年以上前の文章ですから、読みやすさは正直に言えば標準的です。文体は端正ですが漢語が多く、当時の学生的な教養を前提にした比喩も出てきます。仏像の名称や寺の位置関係も、地図を横に置いたほうが頭に入るでしょう。奈良へ行く前後に読むと効果が倍増する、稀有な種類の一冊です。
この本を読んだ後の、おすすめのアクション
本書を持って、奈良へ一泊してください。まず奈良国立博物館のなら仏像館で、仏像の見方に眼を慣らすのが効率的です。重要文化財である旧帝国奈良博物館本館の建物に、飛鳥から鎌倉までの仏像がまとまって並んでいます。
そのうえで法隆寺へ向かい、大宝蔵院で百済観音に会う。斑鳩まで来たなら、すぐ近くの中宮寺で菩薩半跏像の微笑も見ておきたいところです。東大寺、唐招提寺、薬師寺は市内から回りやすく、桜井方面まで足を延ばせば聖林寺の十一面観音が待っています。本書の該当箇所を現地で読み返すと、和辻が何に驚いたのかが体でわかります。
まとめ
『古寺巡礼』は、仏像を美術として見る目を最初に開いてくれる本です。奈良を訪ねる予定があるなら、旅の前に一章だけでも読んでおくことをおすすめします。
Kindle版:古寺巡礼(岩波文庫)
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