『暗幕のゲルニカ』:ピカソの「ゲルニカ」に託された、戦争と芸術をめぐるサスペンス

『暗幕のゲルニカ』:ピカソの「ゲルニカ」に託された、戦争と芸術をめぐるサスペンス

原田マハによるアート小説『暗幕のゲルニカ』。ピカソが「ゲルニカ」を描いた1930年代と、9.11後のニューヨークを行き来しながら、「芸術は世界を救えるのか」という問いに迫る傑作長編です。

はじめに:一枚の絵に、戦争への怒りのすべてを込めて

『暗幕のゲルニカ』(原田マハ 著)は、パブロ・ピカソが1937年に描いた大作「ゲルニカ」をめぐる長編小説です。スペイン内戦下、ナチス・ドイツの空軍によるバスク地方の小都市ゲルニカへの爆撃に対する怒りを込めて描かれたこの絵の誕生と、その後の受難を、二つの時代を行き来しながら追いかけます。

書誌と著者について

本書は2016年に新潮社から刊行された、350ページ超の長編です。2018年には新潮文庫に収められ、文庫版は500ページを超えます。

著者の原田マハは1962年東京生まれ。早稲田大学第二文学部で美術史を学び、森美術館設立準備室やニューヨーク近代美術館(MoMA)での勤務を経て、2002年にフリーのキュレーターとなりました。2005年に『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞を受け作家デビューし、2012年に『楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞、2017年に『リーチ先生』で第36回新田次郎文学賞を受賞しています。美術館の内側を知る人が書いているという事実が、本作の細部の説得力を支えています。

物語の骨格:二つの時代が交互に進む

本書は、1930年代のパリを描く過去パートと、9.11同時多発テロ後のニューヨークを描く現代パートが交互に置かれ、やがて一つに収束していく構成です。

1. 「ゲルニカ」誕生の現場に立ち会う臨場感

過去パートの語り手は、ピカソの恋人だった写真家ドラ・マール(実在)。彼女の目を通して、爆撃の報せに震え、巨大なカンヴァスに挑むピカソの姿が描かれます。ドラ・マールが「ゲルニカ」の制作過程を写真に記録したことは史実であり、その事実が物語に厚みを与えています。

2. 9.11後の世界で問われる「芸術の力」

現代パートの主人公は、ニューヨーク近代美術館のキュレーター八神瑤子(架空の人物)です。ニューヨークの国連本部に掛けられていた「ゲルニカ」のタペストリーが2003年に布で覆われたという実際の出来事を起点に、戦争へ向かう世界の中で芸術に何ができるのかが問われていきます。

3. 史実とフィクションの織り合わせ

実在の人物と歴史的事実の隙間に大胆な創作を差し込む書き方が本作の要です。どこまでが史実でどこからが小説かを意識しながら読むのが、この本の正しい楽しみ方だと言えます。

どんな読者に向くか

ピカソやキュビスムの知識は必要ありません。スペイン内戦や9.11についても、本文中で必要な背景が説明されます。二つの時代を往復する構成のため、拾い読みではなく通読向きです。緊迫した展開が続くので、美術に関心はあるが小説を読み慣れていないという人の一冊目にも向きます。一方で、「ゲルニカ」という作品の美術史的な位置づけを体系的に学びたい人は、別途美術史の概説書を併読すると理解が深まります。

関連して見に行けるもの

「ゲルニカ」の実物はマドリードのソフィア王妃芸術センターが所蔵しており、日本で見ることはできません。ただし、ピカソ作品自体は国内でもまとまって見られます。神奈川の彫刻の森美術館には陶芸・版画などを集めた「ピカソ館」があり、箱根のポーラ美術館、倉敷の大原美術館、広島のひろしま美術館もピカソ作品を所蔵しています。読後に実物の前に立つと、絵の中の線の暴力性が違って見えてくるはずです。

まとめ

『暗幕のゲルニカ』は、アート小説でありながら、戦争と平和をめぐる社会派サスペンスでもあります。芸術は無力ではないというメッセージが、読み終えたあとも長く胸に残る一冊です。

Kindle版:暗幕のゲルニカ(新潮文庫)