悲母観音:狩野芳崖が死の直前に描いた、近代日本画の出発点
- 作者
- 狩野芳崖
- 制作年
- 1888年
- 所蔵
- 東京藝術大学大学美術館
- 所在地
- 東京都台東区
- 指定
- 重要文化財
狩野芳崖が亡くなる4日前まで筆を執った絶筆にして、近代日本画の出発点とされる重要文化財。観音が水瓶から注ぐ水が泡となり、その中に赤子が浮かびます。東京藝術大学大学美術館が所蔵し、常設展示はありません。
悲母観音は、幕末から明治にかけて活躍した絵師・狩野芳崖が1888年(明治21年)に描いた絶筆です。空中に浮かぶ観音が水瓶から水を落とし、その水がつくる泡の中に赤子が包まれています。芳崖の絶筆であり、近代日本画の出発点を告げる記念碑として重要文化財に指定されています。
悲母観音とは
1888年(明治21年)の作品で、絹本着色の額装。寸法は縦195.8センチ、横86.1センチです。1955年に国の重要文化財へ指定され、東京藝術大学が所蔵しています。
画面上方に観音が立ち、下方に向けて水瓶を傾けます。落ちた水は光を帯びた泡となり、その中で赤子が身をかがめています。背景には岩や雲が渦を巻き、全体に金泥と金砂子が併用されて荘厳な輝きをつくり出しています。仏画の主題を用いながら、聖母子像を思わせる構図が採られている点が、この作品を特異なものにしています。
観音の顔立ちは、伝統的な仏画の面相とも、西洋の聖母像とも少し違います。切れ長の目に穏やかな口元、そしてわずかに西洋風の陰影。狩野派の技法を身につけた絵師が、新しい絵画のあり方を模索した痕跡が、この一つの顔に集まっています。衣の流れる線も、伝統的な描線の力強さを保ちながら、量感を感じさせる方向へ寄せられています。
どこで見られる?
- 所蔵先:東京藝術大学大学美術館(東京都台東区上野公園)が所蔵しています。同館の所蔵品は約3万件に及びます。
- 公開状況:常設展示はありません。同館は年に1〜2回の「藝大コレクション展」などでコレクションを公開しており、悲母観音もその機会に展示されます。2008年には「狩野芳崖 悲母観音への軌跡」と題した特集展が開催されました。
- 他館への出品:芳崖の出身地である山口県の下関市立美術館など、他館の展覧会に貸し出されることもあります。
- 所在地:東京都台東区上野公園、JR上野駅から徒歩約10分です。
公開時期は所蔵館の公式サイトで確認してください。
見どころ3選
- 墨線を使わない描法:輪郭にあたる線がすべて色のついた線で引かれ、墨の線が用いられていません。顔料を塗り重ねる重色法によって、西洋のパステル画のような柔らかい色調が生まれています。
- 泡に包まれた赤子:水瓶から落ちた水が透明な球となり、その中に赤子が浮かびます。仏教の主題でありながら、母子の情愛という普遍的な感情に直接届く図像です。
- 金の重層的な使い方:画面全体に金泥と金砂子が併用され、部分によって輝きの質が変えられています。伝統的な仏画の荘厳さを保ちながら、新しい絵画としての質感が追求されています。
描かれた背景
狩野芳崖は1828年、長門国長府(現在の山口県下関市)に長府藩御用絵師の子として生まれました。狩野派の絵師として修行を積みましたが、明治維新によって旧来の絵師の職は失われます。困窮のなかにあった芳崖を見出したのが、来日していたアメリカ人研究者アーネスト・フェノロサでした。
芳崖はフェノロサ、岡倉天心らとともに、西洋の画法を取り入れた日本画の改革に取り組みます。悲母観音は、フェノロサが聖母マリア図に匹敵する作品を描くよう求めたことがきっかけになったとも言われます。芳崖は亡くなる4日前まで筆を執りましたが完成には至らず、最後の金砂子の仕上げは友人の橋本雅邦が引き継ぎました。落款も捺されていません。東京美術学校の開校を目前にした1888年11月、芳崖は世を去ります。改革運動の帰結点であると同時に、その後の日本画がここから始まったと位置づけられる一作です。
芳崖が世を去ったのは、東京美術学校が開校する前年のことでした。教壇に立つことは叶いませんでしたが、その理念は岡倉天心のもとで橋本雅邦らに受け継がれ、やがて横山大観や菱田春草といった次の世代へ流れ込んでいきます。悲母観音が近代日本画の出発点と呼ばれるのは、様式の新しさだけでなく、この一作が後進に与えた方向づけの大きさによるものです。
まとめ
悲母観音は、一人の絵師が生涯の最後に到達した境地であり、近代日本画という新しい流れの起点でもあります。東京藝術大学大学美術館に常設展示はありませんので、藝大コレクション展など公開の機会を確認したうえで訪ねてください。



