『白光』:日本初のイコン画家・山下りん、信仰と芸術のはざまを生きた明治の女性画家
明治の日本からロシアへ渡り、日本人初のイコン(聖像画)画家となった山下りん。西洋画への憧れと信仰のはざまで揺れたその情熱の生涯を描く長編歴史小説です。
はじめに:知られざる明治の女性画家
『白光』(朝井まかて 著)は、日本人として初めてイコン(正教会の聖像画)を本格的に描いた明治の女性画家・山下りんの生涯を描く長編小説です。笠間の貧しい家に生まれ、絵師を志して家を出て、工部美術学校に学び、やがてロシアへ渡る。その道のりは、知られていないのが不思議なほどドラマチックです。
書誌情報:どんな本か
単行本は2021年7月に文藝春秋から刊行されました。のちに文春文庫に収められています。長編ですが章立ては細かく、りんの年齢に沿って場面が進むので読み進めやすい作りです。文庫版が出ているため、いま入手するなら文庫でも構いません。
著者について
著者の朝井まかてさんは1959年大阪生まれ。2014年に『恋歌』で第150回直木三十五賞を受賞した作家です。江戸から明治にかけての実在の人物を主人公に据えた小説を多く手がけており、葛飾北斎の娘・応為を描いた『眩』もその一つです。実在の人物の資料が限られている場合に、残された記録の隙間を想像で埋めながらも人物像を壊さない、という書き方に慣れた書き手であることが、資料の少ない山下りんを主人公にした本作でも効いています。
内容の骨格:何がどの順で書かれているか
物語はりんの少女時代から始まります。笠間を出て絵の道へ進み、開校まもない工部美術学校に学び、そこで西洋画の基礎に触れる。やがて正教会の宣教師ニコライに導かれ、明治13年にロシアへ留学して聖像画を学びます。帰国後は東京でイコンを描き続け、晩年は郷里の笠間へ戻ります。時間軸はほぼ一本で、りんが何を望み、何を求められ、そのずれとどう折り合いをつけたのかが一貫して追われます。
この本ならではの点
りんが学びたかったのは、彼女が憧れたヨーロッパ流の絵画でした。しかし修道院で求められたのは、決められた型を守って描くビザンティン様式のイコンです。「自分の絵」を描きたい芸術家と、型に奉仕する職人。この相克が本作の背骨になっています。日本の洋画黎明期を扱った小説は少なくありませんが、その主人公を女性画家に、しかも宗教画家に据えたものはほとんどありません。工部美術学校での学びや、女性が絵を学ぶことに向けられた視線も具体的に描かれ、明治美術史の副読本としても読めます。
どんな読者に向くか
美術史の予備知識は不要です。むしろ「日本の洋画は誰から始まったのか」を物語で知りたい方に向いています。日本正教会やイコンについての知識も本文中で説明されるので、事前準備はいりません。通読向きの長編で、拾い読みには適しません。なお、りんをはじめ主要人物には実在の人物が多く含まれますが、会話や心情は小説として書かれたものです。評伝ではなく小説として読んでください。
関連して見に行けるもの
山下りんのイコンは、いまも各地の正教会で現役の聖像として掛かっています。函館ハリストス正教会(北海道函館市)は代表的な一つで、国の重要文化財に指定された豊橋ハリストス正教会(愛知県豊橋市)でもりんの作品が伝えられています。作品をまとめて見たい方には、郷里の茨城県笠間市にある白凛居がおすすめです。りんのイコンを展示する小さな施設で、開館日が限られているため事前に確認してから訪ねてください。東京・御茶ノ水のニコライ堂(東京復活大聖堂)は、りんが長く関わった日本正教会の中心にあたる聖堂です。1923年の関東大震災で大きな被害を受け、のちに修復・再建されて現在に至ります。
まとめ
『白光』は、美術史の傍流に置かれてきた一人の女性画家を、堂々たる主人公として蘇らせた歴史小説です。明治の美術に関心のある方に強くおすすめします。
Kindle版:白光(文春文庫)
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