『眼の神殿』:「美術」という言葉は、明治日本でつくられた翻訳語だった
「美術」も「日本画」も、明治になってつくられた新しい概念だった。洋画家・高橋由一の幻の展示施設「螺旋展画閣」を糸口に、作品史ではなく制度の歴史として日本近代美術史を書き換えた画期的な研究書です。入門書ではないので、どんな読者に向く本かも正直に書きました。
はじめに:私たちが当然と思う「美術」は、150年ほど前の発明品である
美術館へ行き、絵を見て、これは美術だと考える。その枠組み自体がいつ、どうやってできたのかを問い直したのが『眼の神殿』(北澤憲昭 著)です。副題は『「美術」受容史ノート』。
日本語の「美術」は明治五年(1872年)、ウィーン万国博覧会の出品規定を訳す際につくられた官製の翻訳語でした。「日本画」も明治期に新しく生まれた区分です。つまり私たちが自然な分類だと思っているものは、近代日本が制度として組み立てたものだった。本書はそれを、洋画家・高橋由一が構想した幻の展示施設「螺旋展画閣」を糸口に解き明かします。
1989年に美術出版社から刊行され、1990年度のサントリー学芸賞(芸術・文学部門)を受賞しました。2010年にブリュッケから定本が、2020年にはちくま学芸文庫版が出ています。
著者について
北澤憲昭さんは美術評論家で、本書はその最初の著書にあたります。最初の一冊がそのまま分野の前提を書き換えてしまった、という珍しい部類の本です。以後も著者は日本近代美術を制度の側から読み直す仕事を続けており、その方法は美術史にとどまらず、建築史や文化史にも波及しました。
この本の3つの見どころ(読みどころ)
1. 作品史ではなく、制度の歴史として美術を見る
従来の美術史は、誰がどんな傑作を描いたかを軸に語られてきました。本書が取り替えたのは、その軸です。翻訳語、博覧会、博物館、美術学校、展覧会、公募団体。作品を「美術」として成立させる装置の側から歴史を書くと、まったく別の風景が見えてきます。美術館という建物が中立な器ではなく、価値を決める仕掛けとして機能していることに気づかされます。
2. 高橋由一という、近代の入口に立った画家
本書の主人公は高橋由一(1828〜1894)です。《鮭》で知られる、日本最初期の本格的な洋画家。彼が構想した「螺旋展画閣」は、螺旋状の斜路を上りながら絵を見せる展示施設で、結局実現しませんでした。北澤はこの実現しなかった建築構想を、日本に「美術を見る場所」が生まれる瞬間の記録として読み込みます。夢の建築を通して制度の誕生を語るという着想が、この本の魅力です。
3. 言葉が制度を生み、制度が作品の見え方を決める
本書がとりわけ鮮やかなのは、言葉そのものを史料として扱う手つきです。博覧会の出品規定という実務的な文書のなかで生まれた訳語が、やがて制度を生み、その制度が作品の見え方を決めていく。言葉、制度、作品という順に並ぶこの因果は、私たちの直観とはちょうど逆向きです。読み終えると、展示室の壁のキャプションが「日本画」「洋画」と分けている、その分類そのものが歴史の産物なのだと分かるようになります。
どんな読者に向くか。ここは正直に書きます
本書は入門書ではありません。明確に研究書です。文庫でもかなりの厚みがあり、明治期の一次資料の引用や制度史の用語、言説分析の枠組みが前提として出てきます。日本近代美術についてまだ基礎知識がない段階で読み始めると、かなり手強いはずです。頭から通読しようとするより、関心のある章から入ったほうが挫折しません。
逆に、日本画と洋画の区分に疑問を感じたことがある人、美術館の成り立ちに関心がある人、近代日本の展覧会史を調べたい人には、これ以上の一冊はありません。まずは高橋由一や明治の美術行政について一般書で全体像をつかんでから挑むと、格段に読みやすくなります。
この本を読んだ後の、おすすめのアクション
高橋由一の《鮭》に会う:《鮭》は東京藝術大学大学美術館の所蔵で、重要文化財に指定されています。常時公開ではないため展示情報の確認は必要ですが、本書を読んだあとに見ると、単なる写実の力作ではなく、日本に「美術」という制度が立ち上がる現場の証言として見えてきます。
近代日本の美術を通しで見る:東京国立近代美術館の所蔵作品展では、明治から現代までの日本の美術をまとめてたどれます。高橋由一の作品が必ず出ているわけではありませんが、「日本画」と「洋画」がどう並べられ、どこで分けられているかを自分の目で確かめる場所として、本書を読んだ直後ほど面白い展示室はありません。
まとめ
読み通すには体力が必要ですが、得られる視点の転換は大きいものです。美術とは何か、という問いに対して、本書は定義ではなく歴史で答えます。誰かが決めた枠組みのなかで作品を見ていたと気づくのは落ち着かない体験ですが、その気づきは展覧会を見る眼を確実に鍛えてくれます。
Kindle版:眼の神殿 ――「美術」受容史ノート(ちくま学芸文庫)
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