『サロメ』:世紀末ロンドンを駆け抜けた夭折の鬼才、ビアズリーの光と闇
オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」に挿絵を描き、25歳で夭折した天才オーブリー・ビアズリー。その姉メイベルの視点から、世紀末芸術の光と闇を描く長編小説です。
はじめに:モノクロームの線が生んだスキャンダル
『サロメ』(原田マハ 著)は、19世紀末のロンドンに彗星のように現れ、25歳で世を去った鬼才オーブリー・ビアズリーを描く長編小説です。オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』英語版に寄せた、白と黒だけで構成された妖艶な挿絵はあまりに有名。本作は、あの線がどのように生まれ、なぜ画家と作家の関係が破滅へ向かったのかを、姉メイベルを軸に描き出します。
書誌
2017年1月に文藝春秋から単行本が刊行され、2020年5月に文春文庫へ収められました。いまは文庫で手軽に読めます。
著者について
原田マハさんは、美術館のキュレーターとして働いた経歴を持つ小説家です。『楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞を受賞し、以後もアートを主題にした小説を書き続けています。本作もその系列にあり、現代と過去を往復する構成が採られています。物語はまず現代のロンドンから幕を開けます。ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館に勤める日本人学芸員・甲斐祐也が、研究者ジェーン・マクノイアから、知られざる版の『サロメ』について相談を受ける——この謎解きの枠組みが、読者を一気に世紀末へと連れ去ります。
この本の3つの見どころ(読みどころ)
1. 世紀末ロンドンの空気
ヴィクトリア朝末期の抑圧と退廃、その狭間で花開いた耽美の文化。ワイルドのスキャンダルに揺れる美術界・文学界の空気が濃密に再現されます。史実の上でも、ビアズリーは伝説的な文芸誌『イエロー・ブック』の美術編集者として一世を風靡しながら、ワイルドの逮捕をきっかけにその座を追われました。肺結核という当時の死病を抱えて描き続ける青年の焦りと、時代の熱狂が、ひとつづきのものとして立ち上がってきます。
2. ビアズリーとワイルド、危険な蜜月
互いの才能に引かれ合いながら、やがて破滅的にすれ違っていく画家と作家。そこにワイルドの恋人アルフレッド・ダグラスも加わり、四人の関係は愛憎の四つ巴へと縺れていきます。芸術家同士の共鳴と嫉妬、そして「誰の名前で作品は残るのか」という普遍的な問いが、史実を土台にスリリングに展開します。
3. 姉メイベルという存在
弟の才能を誰よりも信じ、支え、そして翻弄された姉。女優であったメイベルの目を通すことで、挿絵の裏にある家族の物語が立ち上がります。才能を持つ者と、それを支える者。どちらが幸福なのかを静かに問う視線は、原田マハのアート小説に一貫して流れるテーマでもあります。ラストの余韻は忘れがたいものがあります。
どんな読者に向くか
美術史の予備知識はいりませんが、ワイルドの戯曲『サロメ』のあらすじだけは先に押さえておくと、格段に読みやすくなります。文庫一冊分の長編で、頭から通読する本です。世紀末芸術やアール・ヌーヴォーに惹かれる方、耽美的な世界が好きな方には、とりわけ向いています。注意点として、ビアズリー、ワイルド、メイベル、ダグラスは実在の人物ですが、本作は評伝ではありません。現代パートの甲斐祐也やジェーン・マクノイアは架空で、物語の核心にある「知られざる版」の謎も小説としての創作です。史実を確かめたい方は、別に評伝や画集を当たってください。
類書と何が違うのか
ビアズリーを扱う日本語の本は、画集か美術史の解説書がほとんどで、小説はきわめて稀です。しかも本作は、天才本人ではなく支える側の姉に視点を預けている点が際立っています。世紀末芸術は、退廃や耽美といった言葉で語られがちなジャンルですが、そこに家族の生活と経済を持ち込むことで、伝説が生身の話に引き戻される。図版で入るのとはまるで違う角度から、あの黒い線に近づける本です。
関連して見に行けるもの
挿絵はもともと書物のために描かれたものですから、まずは図版付きの戯曲『サロメ』を手に入れ、本文と絵を交互にたどるのが、いちばん贅沢な読み方です。ビアズリーの原画をまとめて常設展示する日本の美術館は見当たりませんが、企画展で紹介される機会はあるので、展覧会情報を気にかけておくとよいでしょう。日本への残響をたどるなら、東京・文京区の竹久夢二美術館へ。ビアズリーら世紀末の線描と響き合う夢二の作品を、まとめて見ることができます。
まとめ
『サロメ』は、世紀末芸術というジャンルへの最良の入口になる長編小説です。アール・ヌーヴォーの曲線、浮世絵からの影響、そして日本の作家たちへと渡っていった残響。一冊読み終えるころには、19世紀末という時代そのものが好きになっているはずです。
Kindle版:サロメ(文春文庫)
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