エドヴァルド・ムンク:うねる線と強烈な色彩、人間の「不安と孤独」を可視化した表現主義の先駆者
「叫び」で世界的に有名なノルウェーの画家ムンク。幼少期の家族の相次ぐ死のトラウマから、愛、嫉妬、病、そして「死への恐怖」といった自身の生々しい精神のゆらぎをキャンバスにぶつけ続けた生涯の物語。
はじめに:目に見える現実ではなく、心に渦巻く「叫び」を描く
エドヴァルド・ムンク(1863-1944)は、ノルウェーの画家です。表現主義絵画の先駆者と位置づけられ、現実をそのまま記録するのではなく、カメラが捉えられない人間の心の奥底——不安、孤独、嫉妬、絶望——をキャンバスに定着させようとしました。波打つようなうねる線と、不穏な赤や紫の色彩は、見る者の心に直接語りかけ、深い共鳴とざわめきを引き起こします。
生涯:病と死に囲まれた子供時代、そして芸術による魂の救済
ムンクは1863年、ノルウェー東部のローテンに軍医の子として生まれ、翌年、一家は首都クリスチャニア(現在のオスロ)へ移りました。5歳で母を、13歳で最愛の姉ソフィエを結核で失い、自身も病弱で、常に死の恐怖に怯えて育ちます。妹は精神を病み、信仰に厳格な父との関係も重い影を落としました。ムンクは後年、「病気と狂気と死が、私のゆりかごの周りに群がっていた黒い天使たちだった」と書き残しています。
工学の道を志して技術学校に入りますが1年で退学し、絵に転じました。1885年に初めてパリを訪れ、印象派やゴーギャンに触れます。1892年、ベルリンの美術家協会に招かれて開いた個展は、あまりの前衛性に会員から抗議が殺到し、わずか1週間で閉鎖される騒動となりました。しかしこの「ムンク事件」が彼の名を一気にヨーロッパへ広め、ベルリン分離派結成の引き金にもなります。
1890年代、ムンクは愛と不安と死をめぐる作品を、ひとつの連作として構想し始めます。これが生涯のライフワーク《生命のフリーズ》です。1908年、アルコールと精神の不調が極まってコペンハーゲンの療養所に入り、約8か月の治療を受けました。回復後の作風は明るさを増し、オスロ大学講堂の壁画《太陽》などの大作に取り組みます。1916年にオスロ郊外エーケリーの地所を買い、以後はそこで隠遁するように制作。1944年、80歳で亡くなりました。生涯独身でしたが、遺言により約1150点の油彩と1万数千点の版画をオスロ市に遺贈し、これがムンク美術館の基礎となっています。
画風の特徴:線がうねり、版画が繰り返す
ムンクの絵では、風景が感情に合わせて変形します。空も水も地面も、人物の内面と同じリズムでうねり、輪郭は溶けて背景と混ざり合う。色は自然の色ではなく、感情の色です。もうひとつ重要なのが版画で、彼は1894年から約50年で850点にのぼる版画を制作しました。同じ主題を油彩でも版画でも、しかも何度も作り直す——ムンクにとって作品は「完成させるもの」ではなく「繰り返し向き合うもの」でした。木版では板を糸鋸で切り分けて色ごとに刷るという独自の方法も編み出しています。
代表作
- 叫び(1893年、ノルウェー国立美術館ほか):ムンクの代名詞。日記には、日没時に橋を歩いていて空が血のように赤くなり、「自然を貫く終わりのない叫び」を感じたと記されています。油彩・テンペラ・パステル・リトグラフで複数の版が存在します。
- 病める子(1885-86年、ノルウェー国立美術館):姉ソフィエの死を主題とした初期の重要作。生涯に6点の版を制作しました。
- マドンナ(1894-95年、ノルウェー国立美術館ほか):聖母という伝統的主題を、生と死が同居する官能的な裸婦として描き直した衝撃作です。
- 不安(1894年、ムンク美術館、オスロ):《叫び》と同じ橋に、黒い喪服の人々が青白い顔で並びます。個の不安が集団の不安へ拡大した一枚です。
- 太陽(1911-16年、オスロ大学講堂):療養後の明るい作風を代表する巨大壁画です。
同時代の画家との関係
パリで出会ったゴーギャンの平面的な色面と、ゴッホのうねる筆致は、ムンクの様式形成に直結しました。ベルリン時代には劇作家ストリンドベリらの文学サークルと交わり、その世紀末的な思想を共有しています。彼の描いた不安と情念は、キルヒナーらドイツ表現主義の画家たちに直接の手本を与えました。なお1937年、ナチス政権はドイツの美術館にあったムンク作品82点を「退廃芸術」として撤去しています。
日本で見られるか
ムンクの油彩の代表作はほぼすべてノルウェーにありますが、日本でもまったく見られないわけではありません。国立西洋美術館(東京・上野)は《マドンナ》のリトグラフをはじめとするムンクの版画をまとまって所蔵し、生誕150周年の2013年には所蔵版画による展覧会を開催しました。油彩ではひろしま美術館が《マイスナー嬢の肖像》を所蔵しています。また2018年から19年にかけて東京都美術館で開かれた「ムンク展―共鳴する魂の叫び」のように、ムンク美術館の全面協力による大規模展が来ることもあります。
見どころ:実物の前で何を見るか
版画に出会ったら、同じ図柄の別バージョンを探してください。刷るたびに手彩色の色が違い、ムンクが色で感情の温度を変えていたことが分かります。油彩では、絵具の薄さに注目を。ムンクはしばしば絵具を極端に薄く延ばし、カンヴァスの目や下地を露出させたまま仕上げました。仕上げを拒むようなその粗さこそが、画面の張りつめた感じを生んでいます。そして線。人物の輪郭が背景のうねりへ吸い込まれていく箇所を見つけると、彼が何を描こうとしていたかが腑に落ちます。
代表作ギャラリー








作品画像はパブリックドメイン(出典: Wikimedia Commons)