塩田千春:赤い糸で空間を埋め尽くす

画家

何万本もの糸を張り巡らせ、その網に鍵や鞄やベッドを絡めとる。塩田千春のインスタレーションは記憶そのものの見取り図です。2015年のヴェネチア・ビエンナーレ日本館《掌の鍵》で世界を驚かせました。越後妻有と十和田では常設作品に会えます。

塩田千春(1972-)は、無数の糸を用いた大規模なインスタレーションで知られる現代美術の作家です。赤や黒の糸を部屋いっぱいに張り巡らせ、その中に日用品を吊るす作品は、一度見たら強く記憶に残ります。

経歴

1972年、大阪府に生まれました。京都精華大学美術学部で洋画を学びますが、絵を描くことに行き詰まりを感じ、在学中から身体を使った表現に向かいます。

1996年にドイツへ渡り、ハンブルク、ブラウンシュヴァイク、ベルリンの美術大学で学びました。パフォーマンス・アートの先駆者マリーナ・アブラモヴィッチに師事した経験は、身体と時間を扱う塩田の姿勢に大きく影響しています。以後ベルリンを拠点に制作を続けています。

2015年、第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館代表作家に選出されました。

作風と手法

塩田の代表的な手法は、毛糸を空間に張り巡らせることです。壁から壁へ、天井から床へ、糸を何万回も渡していく。作業には数日から数週間かかり、多くの場合スタッフとともに現地で作り上げます。

糸の色には意味があります。赤は血縁や人と人のつながり、黒は宇宙や夜や不在を示すことが多く、白が使われることもあります。そしてその網の中に、鍵、鞄、椅子、ベッド、ドレス、船といった「誰かが使っていた物」が絡めとられます。

持ち主のいなくなった物と、決して切れない糸。作品の主題は一貫して「不在のなかの存在」です。人がいなくなっても、その人が触れた物と、その人をめぐる記憶は残る――塩田はそれを目に見えるかたちにしようとしています。

主な作品

  • 《掌の鍵》(2015年):第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展 日本館。世界中から集めた約18万個の鍵を赤い糸で吊るし、その下に二艘の古い木造船を置いた大作です。
  • 《家の記憶》(2009年):新潟県十日町市松之山の下鰕池集落にある、大地の芸術祭の作品。古民家の一階から屋根裏まで黒い毛糸を張り巡らせ、住民から集めた「いらないけれど捨てられない物」を編み込んでいます。
  • 《水の記憶》:青森県の十和田市現代美術館のコレクション作品です。
  • 《不確かな旅》(2016年):赤い糸と鉄の船枠による代表的なインスタレーションで、各国の美術館で展開されてきました。

国際的な評価

2015年のヴェネチア・ビエンナーレ日本館は各国メディアの注目を集め、塩田の名を決定的なものにしました。2019年に森美術館で開かれた大規模個展「塩田千春展:魂がふるえる」は、同館の歴代でも屈指の来場者を記録し、その後アジア各都市を巡回しています。奥能登国際芸術祭など、日本の地域芸術祭にも継続的に参加してきました。

日本で見られる場所

塩田の作品は現地制作の大型インスタレーションが中心のため、常設で見られる場所は貴重です。

「大地の芸術祭」の里 越後妻有(新潟県十日町市松之山下鰕池)の《家の記憶》は、集落の古民家を丸ごと使った恒久作品です。玄関を入った瞬間、黒い糸が視界を覆います。糸のあいだに、地元の人が持ち寄った手紙や靴や家具が浮かんでいて、この家に流れた時間が空間として立ち上がります。芸術祭の会期外も公開日が設けられているため、十日町市観光協会などで開館状況を確認してから訪ねてください。

十和田市現代美術館(青森県十和田市)は《水の記憶》を収蔵しており、常設展示室で見ることができます。街なかのアート広場も含めて、一日楽しめる美術館です。

このほか、国内の美術館で企画展として大型インスタレーションが公開される機会があります。

見どころ

塩田の作品は、写真では糸の密度しか伝わりません。実物の前に立つと、糸のあいだに奥行きがあり、歩くにつれて手前と奥が入れ替わり、物の位置が変わって見えます。そして自分の身体が、その網の外にいるのか中にいるのか分からなくなる。越後妻有の《家の記憶》では、床がきしむ音や家の匂いまで含めて作品です。誰かの生活の痕跡に足を踏み入れる感覚を、ぜひ現地で味わってください。