小倉遊亀:105歳まで描き続けた日本画の巨星、日常の中の「いのち」を見つめて
女性として初めて日本美術院同人となり、105歳まで現役で筆を執った小倉遊亀。入浴する母子や食卓の果物など、日常の一瞬に命の輝きを見出した作品で愛され続ける日本画家の生涯。
小倉遊亀(1895-2000)は、昭和から平成にかけて活躍した日本画家です。湯船につかる母と子、食卓の果物、身支度をする女性。ごくありふれた日常の場面を、明快な色面と大胆な構図で描き、そこに宿る命の輝きをすくい上げました。女性として初めて日本美術院の同人に推挙され、105歳で亡くなる直前まで筆を執り続けた、日本画壇の大きな星です。
生涯:教師と画家、二つの道から
1895年、滋賀県大津市に生まれました。旧姓は溝上です。奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)を卒業後、横浜の女学校で教壇に立ちながら画家を志し、1920年、歴史画の大家・安田靫彦に入門します。
1926年、革丙会の展覧会に出品した《童女入浴》が小林古径や速水御舟らの目にとまり、同年、再興第13回院展に《胡瓜》が初入選しました。1928年に日本美術院の院友、そして1932年、女性として初めて日本美術院同人に推挙されます。当時の画壇で女性が同人になることは前例のない出来事でした。1938年、禅を学んだ小倉鉄樹と結婚し、小倉姓となります。
戦前から戦後にかけて《浴女》の連作で裸婦と水の表現に新境地を開き、鮮やかな色彩と単純化された形による独自の様式を確立しました。1980年に文化勲章を受章。晩年になるほど画面はみずみずしさを増し、90代で描いた花の絵は若々しいと評されています。2000年、105歳で没しました。20世紀の初めから終わりまでを描き通した画業は、それ自体が近代日本画の歴史です。
画風の特徴
遊亀の絵を他の日本画と分けるのは、形の切り詰め方です。人物も器も、輪郭を単純な曲線と直線に整理し、平らな色面として置く。細部を描き込まないぶん、一つひとつの色と形が強く響きます。俯瞰の構図を好み、テーブルや床を上から見下ろすように描くため、画面は平面的でありながら不思議な安定感を持ちます。線は太く迷いがなく、その一本の張りが画面全体の緊張を保っています。晩年ほど色は明るく、筆は自由になりました。
代表作
- 胡瓜(1926年):院展初入選作。身近な野菜を主題にした、遊亀の出発点です。
- 浴女 その一(1938年、東京国立近代美術館):四万温泉に取材し、湯船につかる女性たちを水の揺らぎとともに描いた代表作。タイル、水、肌の質感を大胆な色面で構成しています。
- 浴女 その二(1939年、東京国立近代美術館):前作に続く一点で、二作あわせて遊亀の様式が完成しました。
- 径(こみち)(1966年、東京藝術大学):日傘を差して歩く母娘と犬を、俯瞰の構図でとらえた人気作。何気ない散歩道の一瞬が、永遠のように輝きます。
- 姉妹(滋賀県立美術館):故郷の館が所蔵する人物画で、二人の関係が姿勢だけで語られます。
同時代の画家との関係
師の安田靫彦は日本美術院の中心にいた歴史画の大家で、遊亀は生涯その指導を仰ぎました。画壇に出るきっかけを作ったのは、若い作品を評価した小林古径と速水御舟です。女性画家としては、京都で美人画を大成した上村松園が先行世代にあたりますが、松園が古典的な美人像を理想化したのに対し、遊亀は生活のなかの女性をそのまま描いた点で対照的でした。日本美術院(院展)を終生の発表の場とし、後進の女性画家たちに道を開いた存在でもあります。
日本で見られるか
日本の画家ですから、作品はすべて国内にあります。故郷の滋賀県立美術館が国内最大の小倉遊亀コレクションを持ち、定期的に特集展示を行っています。東京国立近代美術館は《浴女 その一》《その二》を、東京藝術大学は《径》を所蔵。ほかに山種美術館など、近代日本画を集める館でも出会う機会があります。
見どころ
遊亀の絵の前では、まず輪郭線の太さと勢いを追ってください。ためらいのない一本の線が、腕や器の丸みを一気に決めているのがわかります。次に、視点の高さを確かめます。多くの作品でテーブルや床が上から見下ろされており、その俯瞰が画面に落ち着きを与えています。そして色の数を数えてみてください。驚くほど少ない色数で、これだけの豊かさが成り立っていることに気づくはずです。
あわせて読みたい関連記事
女性画家の先駆者としては、美人画の上村松園の記事もぜひどうぞ。江戸の女性絵師では葛飾応為が先達です。日本画の近代化の流れは昭和・現代の日本美術で解説しています。

