ヤン・ファン・エイク:「油絵の父」と呼ばれた男、神の眼を持つ北方ルネサンスの開祖

ヤン・ファン・エイク:「油絵の父」と呼ばれた男、神の眼を持つ北方ルネサンスの開祖

画家

油彩技法を飛躍的に完成させ、「油絵の父」と呼ばれるヤン・ファン・エイク。「アルノルフィーニ夫妻の肖像」や「ヘントの祭壇画」で、鏡や宝石の輝きまで写しとった北方ルネサンス最大の巨匠。

はじめに:500年前の絵が、今も輝いている理由

ヤン・ファン・エイク(1390年頃-1441)は、15世紀フランドル(現在のベルギー周辺)で活躍した画家です。油で顔料を溶く油彩技法を飛躍的に洗練させ、それまでのテンペラ画では不可能だった深い色の輝きと精緻な質感表現を実現したことから、「油絵の父」と呼ばれます。毛皮の一本一本、金属の照り返し、ガラスに映る光まで描き尽くすその筆は、「神の眼を持つ」と讃えられました。

生涯:宮廷画家にして外交官

出生地はマース川沿いのマースエイク(現在のベルギー領)と考えられていますが、前半生は謎に包まれています。1422年からハーグでバイエルン公ヨハン3世に仕え、1425年にはブルゴーニュ公フィリップ善良公の宮廷画家となって破格の待遇を受けました。公の信任は厚く、1428年にはポルトガル王女イザベルとの縁談のための使節団に加わってリスボンへ渡り、王女の肖像を描いて送っています。画家でありながら外交上の任務も担う立場にありました。

1430年代はブルッヘ(ブリュージュ)を拠点に活動し、1432年には同地に家を購入。妻マルガレータの肖像も残しています。当時としては珍しく作品に署名と年記を入れ、「ALS IXH XAN(私にできる限りに)」という謙遜と自負が同居するモットーを書き込みました。兄フーベルトも画家であり、兄弟の共作とされる「ヘントの祭壇画」は北方ルネサンスの記念碑となっています。1441年、ブルッヘで没しました。

画風の特徴:光をつくる技法

ファン・エイクは油彩の発明者ではありません。彼が成し遂げたのは、油の乾燥を制御し、透明な絵具の層を何十層も重ねる技法の確立でした。下層に明るい色を置き、その上に半透明の層を薄く重ねると、光が絵具を通って下地で反射し、内側から発光するような深い色が生まれます。宝石の紅やビロードの青が今も生々しいのはこのためです。もう一つの特徴は焦点の均質さ。近景の顔も遠景の街並みも同じ精度で描き込まれており、人間の目にはあり得ない見え方だからこそ「神の眼」と呼ばれました。

代表作

  • 「ヘントの祭壇画(神秘の子羊の礼拝)」(1432年/聖バーフ大聖堂、ヘント)——開閉式の巨大な多翼祭壇画。史上最も盗難に遭った美術品としても知られ、1934年に盗まれた「正しき裁判官たち」のパネルは今も行方不明です。
  • 「アルノルフィーニ夫妻の肖像」(1434年/ロンドン・ナショナル・ギャラリー)——部屋の奥の凸面鏡には夫妻の後ろ姿と来訪者が映り込み、「ヤン・ファン・エイクここにありき」という署名とともに、絵の中に幾重もの謎を仕掛けています。
  • 「ターバンの男の肖像」(1433年/ロンドン・ナショナル・ギャラリー)——ファン・エイク自身の自画像ともいわれる一点。こちらを見据える視線の生々しさは、600年近く前の絵とは思えないほどです。
  • 「宰相ロランの聖母」(1435年頃/ルーヴル美術館、パリ)——寄進者と聖母が同じ空間で対面し、背後の三連アーチの向こうに川と街が広がる、空間構成の傑作です。

同時代の画家との関係

フーベルトとの分担は、ヘント祭壇画の銘文が唯一の手がかりで今も議論が続いています。同時代のフランドルではロベルト・カンピンが並行して写実の道を開き、次世代のロヒール・ファン・デル・ウェイデンが感情表現を深めました。さらに南のイタリアでは、アントネッロ・ダ・メッシーナがフランドル流の油彩技法を取り入れ、それがヴェネツィア絵画へ流れ込みました。北方の技術革新が、イタリア・ルネサンスの色彩を変えたのです。

日本で見られるか

ファン・エイクの真筆を所蔵する日本の美術館はなく、国内に主要作品はありません。作品はヘント、ブルッヘ、ロンドン、パリ、ベルリン、ワシントンなどに集中しています。板絵は極めて脆弱で、ヘントの祭壇画のような大作は移動そのものが不可能なため、来日の可能性も現実的ではありません。

見どころ:実物の前で何を見るか

できるだけ近づいて見てください。毛皮の一本、真珠の一粒、床板の木目に至るまで筆が入っています。次に反射しているものを探すこと。鏡、甲冑、真鍮のシャンデリア、目の潤み。彼は「光を描く」のではなく「光が跳ね返る面」を描くことで光を存在させます。そして絵の中の窓の外。小さな街並みや川が驚くほど丁寧に描かれています。署名と銘文を探すのも楽しみのひとつです。

まとめ

ファン・エイクは、技法の革新によって「見ること」の限界を押し広げた画家です。その画面の前では、時間をかけるほど発見が増えていきます。

代表作ギャラリー

アルノルフィーニ夫妻像
アルノルフィーニ夫妻像1434年ロンドン・ナショナル・ギャラリー
ヘントの祭壇画
ヘントの祭壇画1432年聖バーフ大聖堂
宰相ロランの聖母
宰相ロランの聖母1435年頃ルーヴル美術館
教会の聖母子
教会の聖母子1430年German paintings 13th-16.th century room 4
ファン・デル・パーレの聖母子
ファン・デル・パーレの聖母子1436年Groeningemuseum - Room 1
自画像
自画像1433年Room 52 - Creating Illusion: Netherlandish Painting 1420–1480
受胎告知
受胎告知1435年ナショナル・ギャラリー・オブ・アート
ティモテオスの肖像
ティモテオスの肖像1432年Room 15

作品画像はパブリックドメイン(出典: Wikimedia Commons)