フランシス・ベーコン:叫ぶ教皇と歪む肉体、人間存在の底を見つめた20世紀の巨匠
ベラスケスの教皇を「叫ぶ教皇」に変え、歪み、ねじれる肉体を描き続けたフランシス・ベーコン。戦後美術で最も高く評価される画家の一人となった、アイルランド生まれの異才の生涯。
はじめに:見る者を殴りつけるような絵
フランシス・ベーコン(1909-1992)は、アイルランド・ダブリン生まれ、ロンドンで活躍した画家です。密室のような空間で、叫び、歪み、溶けかかる人間の肉体。その絵は決して「美しい」ものではありませんが、戦争と暴力の世紀を生きた人間の実存を、これほど強烈に描いた画家は他にいません。生前から絶大な評価を受け、2013年には《ルシアン・フロイドの三つの習作》が約1億4,240万ドルという当時の美術品最高額で落札されました。
生涯:独学の画家、栄光と喪失
ベーコンは正規の美術教育をほとんど受けず、家具やインテリアのデザイナーとして出発した独学の画家です。1920年代末にパリで見たピカソの作品に衝撃を受け、絵画へ傾いていきました。世に出たのは1944年に制作し翌年発表した《キリスト磔刑図のための三つの習作》(ロンドン・テート蔵)。歪んだ生きものがうごめく三幅対は、戦争末期のロンドンに衝撃を与えました。
以後、「叫ぶ教皇」の連作や、恋人ジョージ・ダイアーをモデルにした肖像群を発表します。1971年、パリのグラン・パレでの大回顧展の開幕直前にダイアーが亡くなり、その死を悼む「黒い三幅対」を描きました。写真や映画のイメージを素材に「神経系に直接触れる」絵画を求め続け、1992年、旅先のマドリードで82歳の生涯を閉じます。散らかり放題だったロンドンのアトリエは、死後、ダブリンのヒュー・レイン・ギャラリーに丸ごと移設・再現されました。
画風の特徴:閉じた箱のなかで溶ける肉体
ベーコンの画面には決まった仕掛けがあります。人物を囲む細い線の枠——檻のような「スペース・フレーム」。オレンジや深い青といった均質で平坦な背景色。その平面の上に、練り込むように歪めた肉体だけが立体として置かれます。さらに三枚一組の三幅対(トリプティック)という形式は、祭壇画の枠組みを借りながら、そこに宗教ではなく生身の人間を据えたものです。制作にはモデルを前にせず写真を使い、絵具を布や手で擦りつけて、意図と偶然が混ざる瞬間を狙いました。
「叫ぶ教皇」とは?
「ベーコンといえば叫ぶ教皇」と言われるほど有名なのが、1953年の《ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像に基づく習作》(アメリカ・アイオワ州、デモイン・アート・センター蔵)です。紫の法衣をまとい玉座に座る教皇が、口を大きく開けて叫んでいます。画面には垂直のカーテンのような筆致がかかり、教皇はまるで透明な檻に閉じ込められているかのようです。
下敷きになったのは、ディエゴ・ベラスケスが1650年に描いた《教皇インノケンティウス10世の肖像》(ローマ、ドーリア・パンフィーリ美術館蔵)です。ベラスケスを深く敬愛していたベーコンは、1949年頃から1971年にかけてこの絵に基づく変奏を数十点も描きながら、ローマを訪れた際も本物を見に行かず、複製図版だけを頼りにしたと伝えられています。
ベーコンは、映画『戦艦ポチョムキン』(1925年)で銃撃され絶叫する乳母のクローズアップに取り憑かれており、そのイメージを教皇像に重ねました。「モネが夕日を描くように口を描きたかった」という趣旨の言葉も残しています。権威の頂点に立つはずの人物が密室でひとり叫ぶ——そこに20世紀の実存的な不安と、権威の空虚さが凝縮されています。
代表作
- 《キリスト磔刑図のための三つの習作》(1944年、ロンドン・テート蔵):ベーコンの名を世に知らしめた三幅対。人間とも動物ともつかない生きものの造形は、戦争の時代の空気そのものです。
- 《ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像に基づく習作》(1953年、デモイン・アート・センター蔵):荘厳な教皇像を、檻のような空間で叫ぶ姿に変えた代表作。
- ジョージ・ダイアーをめぐる三幅対(1971-73年ほか):恋人の生と死をめぐる肖像群。激しく歪んだ顔貌の奥に、喪失の痛みと愛情が同居します。
同時代の画家との関係
最も近い存在は、同じロンドンで具象を描き続けたルシアン・フロイド(1922-2011)でした。二人は長く親密な友人であり、互いをモデルに描き合っています。皮膚と肉の質感を執拗に追ったフロイドと、肉体を運動として捉えたベーコン——同じ「人間を描く」でも方法は正反対でした。両者を含む戦後ロンドンの具象画家たちは、のちに「スクール・オブ・ロンドン」と総称されます。先人としてはベラスケスへの敬愛が決定的で、ピカソの変形された人体からも刺激を受けました。抽象が主流だった時代にあえて人間の姿を描き続けた点で、ベーコンは孤高の存在です。
日本で見られるか
ベーコンの作品は、日本でも複数の公立美術館が所蔵しています。東京国立近代美術館は《スフィンクス——ミュリエル・ベルチャーの肖像》(1979年)を収蔵。富山県美術館は《横たわる人物》(1977年)など複数点を持ち、豊田市美術館もコレクションに加えています。いずれも常時展示ではないため、所蔵品展の内容を確認してから訪ねるとよいでしょう。1983年には東京国立近代美術館で日本初の本格的な回顧展が開かれました。
見どころ:実物の前で何を見るか
まず背景の平坦さと肉体の厚みの落差です。背景はほとんど絵具の跡がないのに、顔や身体だけが盛り上がり、擦られ、掻き取られています。次に枠線。人物を囲む細い線がどこで途切れ、どこで閉じているかを追うと、閉塞感の作り方が見えてきます。そして画布の地。下塗りをしない生地に描くことが多く、絵具が繊維に染み込んだざらつきは実物でしか確認できません。
