川瀬巴水:昭和の広重と呼ばれ、スティーブ・ジョブズを魅了した「旅情詩人」の新版画

川瀬巴水:昭和の広重と呼ばれ、スティーブ・ジョブズを魅了した「旅情詩人」の新版画

画家

失われゆく日本の風景を旅して描き、木版画の伝統に近代的な叙情を吹き込んだ川瀬巴水。「昭和の広重」と称され、スティーブ・ジョブズが愛蔵したことでも知られる新版画の第一人者の生涯。

川瀬巴水(かわせ・はすい、1883-1957)は、大正から昭和にかけて活躍した木版画家です。江戸の浮世絵版画の技術を近代に蘇らせた「新版画」運動の中心的な存在で、日本各地を旅しながら、雪の寺、月夜の坂道、雨の街道といった郷愁を誘う風景を描き続けました。その詩情あふれる作風から「昭和の広重」「旅情詩人」と呼ばれ、海外でも高い人気を保っています。

生涯:遅いスタートから、生涯絵師の道へ

東京・芝の商家に生まれた巴水は、幼い頃から絵を好みましたが、家業を継ぐ立場にあったため画業への道は回り道になりました。日本画家・鏑木清方に入門を願い出たのは20代半ばのこと。清方は一度これを断り、まず洋画で写生の基礎を学ぶよう勧めます。巴水は洋画研究所で数年学び直し、あらためて入門を許されて「巴水」の号を与えられました。27歳になっていました。

決定的な転機は1918年です。兄弟子の伊東深水が手がけた風景版画を見て強く心を動かされ、版元・渡邊庄三郎のもとを訪ねます。渡邊は、浮世絵の彫師・摺師の技術を生かして新しい木版画をつくる「新版画」を提唱していました。巴水はまず塩原の風景を三点の版画にまとめ、これが好評を得て、以後この運動の中心作家となります。

1923年の関東大震災では、旅先で描きためた写生帖の大半を焼失するという痛手を負いました。それでも翌年には再び旅に出て、東北から関西、朝鮮半島まで足を運び、生涯で600点を超える版画を残しています。1957年、最後の作品となる平泉中尊寺の版画を仕上げた年に、74歳で亡くなりました。

画風の特徴

巴水の版画は、旅先で描いた写生をもとに、版元・彫師・摺師との共同作業でつくられます。特徴は第一に、雨、雪、月、夕暮れといった光と天候の描写です。空のぼかし摺りは何度も摺りを重ねてつくられ、夜の場面では一枚の中に藍から群青まで無数の階調が現れます。第二に、洋画の遠近法を取り入れた奥行きのある構図。第三に、必ずといってよいほど画面に一人か二人の小さな人物が置かれ、傘をさして歩く後ろ姿が、風景に時間の流れと体温を与えています。

代表作

  • 東京二十景「芝増上寺」(1925年):雪の降りしきる増上寺の朱塗りの門前を、和傘の女性が足早に歩く代表作。赤と白の対比が鮮烈な一枚です。
  • 東京二十景「馬込の月」(1930年):満月の夜、静まり返った東京・馬込の坂道を描いた名作。青い夜空の階調に、木版摺りの技術が凝縮されています(東京富士美術館ほか所蔵)。
  • 東京二十景「不忍池の雨」(1929年):雨の水面に灯りがにじむ、雨の描写の代表例です。
  • 塩原三部作(1918年):「塩原おかね路」など、巴水が新版画の作家として世に出た最初の連作です。

これらはいずれも版画のため、同じ図柄が国内外の複数の美術館に所蔵されています。

同時代の作家との関係

師は美人画の巨匠鏑木清方。同門の兄弟子である伊東深水の風景版画が、巴水を版画の道へ導きました。版元渡邊庄三郎との関係は、単なる出版者と作家ではなく、新版画という運動を二人三脚でつくり上げた共同制作者と呼ぶべきものです。同じ時期に風景版画で世界的評価を得た吉田博とはしばしば並び称されますが、吉田が自ら版元を兼ねて洋画の写実を持ち込んだのに対し、巴水は江戸以来の抒情を受け継いだ点で対照的です。江戸の先達としては歌川広重の系譜に位置づけられます。

日本で見られるか

巴水が長く暮らした東京都大田区の大田区立郷土博物館が、巴水作品と資料の充実したコレクションを持ち、たびたび企画展を開いています。東京富士美術館(東京都八王子市)も《馬込の月》などを所蔵しています。木版画は光に弱いため常設展示されることは少なく、公開時期を確認して訪ねるのが確実です。

見どころ

実物の前では、まずを見てください。印刷では単色に見える空が、摺り重ねによる細かな濃淡でできていることがわかります。次に、雪や雨の白い線。これは白い絵具ではなく、紙の地の色をそのまま残した「摺り残し」です。そして必ず、画中の小さな人物を探してください。その人物がどこを向いているかで、その風景がどの時刻の、どんな気温の場所なのかが伝わってきます。

代表作ギャラリー

芝増上寺(東京二十景)
芝増上寺(東京二十景)1925年
馬込の月
馬込の月1930年
清洲橋
清洲橋1931年

作品画像はパブリックドメイン(出典: Wikimedia Commons)