ピエール・ボナール:日常が色彩の楽園に変わる、「日本かぶれのナビ」
食卓、浴室、窓辺の光。ボナールは何気ない日常を、とろけるような色彩の楽園に変えました。浮世絵に学んだ大胆な構図から「日本かぶれのナビ」と呼ばれた、ナビ派を代表する色彩の魔術師です。
はじめに:ありふれた一日を祝祭に変える
ピエール・ボナール(1867-1947)は、19世紀末のナビ派に参加し、20世紀半ばまで独自の道を歩んだフランスの画家です。描いたのは、朝食のテーブル、湯浴みする妻マルト、窓から差し込む南仏の光といった、ごく私的な日常ばかり。しかしその画面は、現実をはるかに超えた色彩の輝きに満ちています。
生涯:法学生から、南仏の隠者へ
ボナールは1867年、パリ近郊フォントネー=オー=ローズの官吏の家に生まれました。父の意向で法律を学び弁護士の資格まで取りますが、絵をあきらめきれずアカデミー・ジュリアンとエコール・デ・ボザールへ通います。ここでポール・セリュジエ、モーリス・ドニ、エドゥアール・ヴュイヤールらと出会い、1888年、ゴーガンの教えを核に据えた前衛グループナビ派を結成しました。
初期の彼を有名にしたのは絵画よりポスターでした。1891年の「フランス=シャンパーニュ」の広告は大評判となり、ロートレックにも刺激を与えます。雑誌の挿絵やリトグラフ集など、平面デザインが20代の主戦場でした。
1893年、路上で出会った女性マリア・ブルサン——のちにマルトと名乗る——が生涯の伴侶となります。病弱で人付き合いを嫌った彼女とともに、二人は都市の社交から離れていきました。正式な結婚は32年後の1925年です。
1912年にセーヌ河畔のヴェルノネ、1926年には南仏ル・カネに「ル・ボスケ」と呼ぶ家を買い、以後はほぼそこに籠もります。1942年にマルトが没した後も、彼女の姿を記憶から描き続けました。1947年、ル・カネで79歳の生涯を閉じます。
画風の特徴:記憶で塗る色
ボナールの制作方法は独特です。モチーフを前にして描かず、手帳に鉛筆でメモを取り、アトリエで記憶をもとに色を組み立てました。見た色ではなく感じた色を置く——目の前の光を記録した印象派との決定的な違いです。壁に画布を画鋲で留めたまま何年も描き足す癖があり、展示中の自作に絵具を塗り足そうとした逸話も残っています。
色彩は補色を隣り合わせに置いて振動させるのが基本で、輪郭線を使わず色の接触だけで形が浮かびます。構図には浮世絵の影響が濃く、真上から見下ろす食卓、極端な縦長の画面、人物を端で切る大胆さは日本美術譲りです。
代表作
- 逆光の裸婦(オー・ド・コロン)(1908年/ベルギー王立美術館、ブリュッセル):窓の逆光のなかで身づくろいする裸婦。光と色彩の実験の到達点です。
- 浴槽の裸婦の連作(1920-40年代/パリ市立近代美術館ほか):浴槽に横たわるマルトの身体が、タイルの反射とともに虹色に溶けていく晩年の代表作群。日常の情景が永遠の光景へ変わる瞬間です。
- 欄干の猫(1909年/大原美術館、倉敷):日本で見られるボナールの代表的な一点。
同時代の画家との関係
ナビ派の同志ヴュイヤールとは生涯の親友で、ともに室内と日常を主題としたため「アンティミスト(親密派)」と呼ばれます。ヴュイヤールが人物を壁紙の模様に溶かし込んだのに対し、ボナールは光に溶かしました。理論を語ったモーリス・ドニと違い、ボナールは生涯「主義」を持ちませんでした。マティスとは長年の文通相手であり、色彩をめぐる良き競争相手でもあります。一方でピカソは彼を「決断のない画家」と手厳しく批判しました。この毀誉褒貶が、20世紀美術における彼の位置を物語っています。
日本で見られるか
日本にはボナール作品が比較的多く、常設で会える機会があります。国立西洋美術館(東京・上野)が「坐る娘と兎」(1891年)「働く人々」(1916-20年)「花」などを、大原美術館(岡山県倉敷市)が「欄干の猫」(1909年)を所蔵。ひろしま美術館やポーラ美術館にも作品があります。初期から晩年まで揃うため、国内だけでも画風の変化を追えます。
見どころ
- 隅を見る:ボナールの絵は画面の端に猫や人物がひっそり隠れていることが多々あります。宝探しのように隅々まで見てください。
- 色の温度を感じる:オレンジと紫、黄色と青。補色がぶつかり合う画面を少し離れて見ると、色がふるえるように輝き出します。
- 視点の高さ:食卓を真上から見下ろすなど、視点が一つに定まっていません。浮世絵の呼吸です。
まとめ
ボナールは「幸福の画家」と呼ばれますが、その色彩の奥には記憶と時間への深い眼差しがあります。日常を愛おしむすべての人に響く画家です。
代表作ギャラリー








作品画像はパブリックドメイン(出典: Wikimedia Commons)